村上氏はこんなにも走っていたのだ。25年もの間。彼はこの本をエッセイではなく、メモワールという。回想録と。だからこの本は、彼の過去から、現在、そして未来までもが「走ること−走っていること」を定点観測所のようにしながら語られていく。回想録とは、過去にうち捨てられた日記帳ではなく、未来への跳梁にほかならないから、彼は末尾に自分の墓碑銘すら書いてしまう。「村上春樹 作家(そしてランナー) 1949−20** 少なくとも最後まで歩かなかった」 フルマラソンを二十数回も走った、世界的な作家(いまやノーベル賞候補ともいわれる)にしてランナーは珍しいということで、「ランナーズ・ワールド」誌のインタビューも受けたりする。 また、私たちランナーもしばし直面する質問である「走っているときにどんなことを考えるのか」に対して、「正直なところ、自分がこれまで走りながら何を考えてきたのか、ろくすっぽ思い出せない」(ランナーとしては納得させられる)と書きつつ、さらに思考を進める。「僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている」と。そしてさらにこの「走ること−走っていること」が、村上氏の生活や仕事の場面へと地続きとなっていき、その不即不離の関係性について語られるのである。 村上氏は毎年1回は、フルマラソンに出場し続け、サロマ湖の100キロマラソンも完走し、夏のシーズンにはトライアスロンにも挑戦し続けている。後書きでは「アイアンマン・サイズの本格的なトライアスロン大会にがんばってトライすることにも、正直言って興味はなくはない」と言う58歳である。 「走ること−走っていること」を定点観測所にした穏やかなる暴風雨の回想の書である。